機械人間のための休息
電化製品(機械)であるわたしとワタシのあいだ
わたしは私、あなたは貴方
わたしはアナタ、あなたはワタシ
わたしは私、しゃかいは社会
わたしはシャカイ、しゃかいはワタシ
わたしはそらを飛び、あなぐらで絶望する
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わたしは火をおこし、スイッチをおす
わたしは水をはり、ワタシをうつす
わたしは空をながめ、トリをよぶ
わたしは土をいじり、カタをつくる
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共同体からの疎外はシを意味する
共同体からの逸脱はセイを意味する
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物はヒトになれる
人はモノになれない
物がゴミになるとき、ケンコウに近づく
人が健康になるとき、ゴミに近づく
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わたしは住まう
わたしは世界を信じる
わたしは外壁をつくる
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言葉のルール(ビンスワンガー『精神分裂病Ⅰ』より考案):
ひらがな=自己世界(私だけの想像的世界)
漢字=共同世界(私以外の人もいる象徴的世界)
カタカナ=超越世界(近づけるが辿り着けない神秘的世界)
実体=環境世界(物質的・現実的世界)
私たちは、土というものが、実生活にどのように浸透しているのか、解るところもあれば、解らないところもある。電気の一部も土(地熱)から作られていることは知っているが、実際に土(地熱)から電気になるまでの経路を全て説明できる人は多くない。
ヴィーダ教の神々の道具や武器、人類や動物の肉体を作ったトヴァシュトリ、目線を合わせるだけで石にしてしまうメデューサ、重力と人間の闘争をやり尽くしたアトラス、4元素を駆使して土を捏ね続ける鍛治職人や陶芸家など、土には人間の基盤を作る意志の作用があり、より物質的で堅実に想像力を現実化することができる。それは「地に足をつける」という言葉からもわかる。土は、このように神話や御伽噺、さらに生活の中でも使われてきた。そして「古事記」でも創造の神様であるイザナギノミコト(伊邪那岐尊)の糞便から、土の神様であるハニヨスノミコト(波邇夜須尊)が生まれたと言われている。
精神科の病棟で、時に糞便を壁に塗りつけたり、手で捏ねていたりする行為をみることが稀にある。それを安易に病状が悪いと片付けてしまって良いのだろうか。何か別の大事なことを考え忘れていないだろうか。特に頭を動かさずに、手で土を捏ねていく間に、何かしらのカタができていく。それは水との融合、空気との接触、火との闘争、その後に生まれるものが、もしかしたらわたしとあなた、わたしとせかい、わたしとワタシの間の偶像となるのかもしれない。
ところで、日常生活で土がなくては、植物を育てることもできない、発電もできない、それじゃ呼吸もできない、本当に生きていけない。ここでハイデガーがいう「道具的存在(自分の身の回りにあるモノの存在)」と「現存在(自分が死へ向かう存在)」とのあいだに立ち返ってみたい。そして身の回りの生活空間における土について、土をいじりながら、身体的に無意識的に考え、それとは全く関係のないコトを意識的に考えてみる。それらはビンスワンガーの言う「理想の追求」という「垂直」方向だけでなく、「経験の広がり」という「水平」方向に橋をかけるような試みになるのか。また「回転木馬」のような世界をずらす装置になるのか。そんな実験を続けていく。
参考:
バシュラール「火の精神分析」「水と夢」「空と夢」「大地と意志の夢想」「大地と休息の夢想」、ビンスワンガー「思い上がり、ひねくれ、わざとらしさ」「精神分裂病Ⅰ」、木村敏「分裂病の現象学」、ハイデガー「建てる・住まう・考える 建築論」「存在と時間Ⅰ・Ⅱ」、ドゥルーズ+ガタリ「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」
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