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罔象能売会を終えて



 「大量生産化された建築や電気機器は道具的存在であるが、人間も道具的存在である」と言えるだろうか。精神科医の昼田源四郎さんはこのように書いている「一般的に言って、道具というものは一つだけ孤立して存在するものではない。金槌は釘を打つため、釘は板を止めるため、というように、道具は全て『・・・のために』という形で相互に指示しあい、一まとまりの道具立てを形成している。つまり一定のシステム連関のうちにあって初めて道具は道具として存在する」。

 

 世界や国、社会、地域がすでにそこに存在していて、その世界の道具の一部として人間は存在することになっているのかもしれない。小中学生は義務教育という形で学校に通学しなくてはいけない存在、日本に生まれたら日本人として生きる存在、会社に就職するとその会社の一員となる存在、ある両親から生まれた子供という存在など、私たちは、一まとまりのシステムに複数属した道具的存在である。そういった意味で、私たちは、機械人間であり、そして機械人間は電気がないと生きていけない。この電気とは、お金や信頼、愛、希望などとでも言い換えが可能だろうか。


 道具的存在は、システム構造の一部であり、それに管理されている。なので、システム自体が崩壊した時に、その道具的存在は道を見失ってしまう。例えば、コロナで社会情勢が変わった時や震災で停電があった時に、道具的存在が危機を迎え、その他の自己の存在を見出すことなく、消滅してしまう恐れがある。もしくは、幸運にもそこで本当の意味で自己の存在を問い直すことができるのかもしれない。しかし自己の存在に向き合うことがいいことだけではない。それは向き合うことで死を選ぶ可能性もあるからだ。最近コロナで自殺者が増えているのもこのためかもしれない。生が辛くて死を選ぶことの死は病死だろうか。一方自己の存在に向き合い、生も死も選びたい人が死を選ぶことは、三島由紀夫の死と同様に、病死とは言えないのだろう。だが全く違ったシステムの世界を体験する機会があれば、病死を防ぐ可能性があるのかもしれない。


 私は個人的にこの自己の存在を問い直す機会はあった方がいいと思う。それは普段生活していてあまりにも問い直す機会が少ないからだ。木村敏は、実存が揺らぐ状況として、①愛の恍惚、②死との直面、③自然との一体感、④宗教や芸術の世界における超越性の体験、⑤災害や旅における日常的秩序からの離脱、⑥呪術的な感応、⑦分裂病や鬱病の発症をあげている。

 私はこの瞬間が起こる出来事には特に注意している。このシチュエーションは、もちろん改善の兆しに導くこともあるが、取り返しのつかない悲惨な結末に落ちる可能性もあるからだ。そこはギャンブル的、運命的な要素が多い。そのため、今回は電気機器に己の実存を問い直してもらうこととした。

 

 今回の滝では、大量生産されて道具化された洗濯機を単なる洗濯機としてではなく、滝の一部としての道具的存在とみなし、違う存在に置き変えてみた。自然との一体化、宗教性の超越体験、呪術的な感応として、洗濯機自身の実存を揺らぐシチュエーションを作れるかの実験であった。

 洗濯機を使った滝は、人工的で自然の滝へ戻すために、だいぶ無理があるように感じた。どこまで工夫しても、山にある荘厳な滝には到達できない絶望感があった。しかし、これが今の社会システムを変えることには、多大かつ超絶な努力が必要であることを示しているのかもしれないと思った。

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