自閉を利用せよ。「ひきこもる」というのは、たくさんの意味をもつように思える。エネルギーを貯めること、身を隠すこと、外部との関係を断つこと、暗い場所にいること、じつはひきこもらないことよりもつらいということ、じつは楽しいこともあること、出るタイミングを待っているけどきっかけが来ないこと、自分のなわばりをつくること等々、たくさんありすぎて、書くことが面倒になってくる。
と書いている私は、普段は仕事しており、「ひきこもり」というわけではない。しかし、この神殿活動においては、「ひきこもっている」のだろう。もちろん新年度がはじまり、生活の色合いが変わったこともあり、それを調整するため、神殿活動は「ひきこもっている」というか、聴衆を巻きこむことを控えている。
これはどうしてだろうか。他者とのかかわりが面倒になったからだろうか、電気の神が勝手にそうさせているのか、私の怠慢だろうか、家族がよく思っていないからだろうか、サッカーの応援ばかりしているからだろうか、可能性は無限にあり、特定できない。
しかし、ひとつだけ、神殿でやっていることがある。それは「雑草で芝生をつくること」である。今まで土をつくってきた。ホームセンターにある栄養の肥えた土ではなく、コンクリートをつくるためのただの砂、砂利であった。その土に生ゴミを捨てたり、水を与えたり、ミミズを住まわせたり、時にはレゴや陶器をいれたりして、ここ2−3年でようやく雑草が育つようになった。
雑草は、やはり手入れをしないと伸びてくる。それはまるで髪の毛と一緒である。正直、髪の毛を切りに床屋に行くのが、少々億劫になることがある。雑草たちをみていても同じことを感じるのだが、切る側からしたら、はやく切りたい思いでいっぱいになる。
早く伸びよ!そして早く切らせよ!
雑草を揃えて切ると、なぜか芝生となる。
芝生はサッカー場や競馬場をイメージさせる。
勝手に雑草の空間が劇場になった気になる。
主役はハサミであり、枠役は雑草である。
ふとした間に、劇場は雑草たちの修羅場となる。
ハサミが雑草たちを同じ長さに切りまくる。
悲劇なのか、喜劇なのか…
注 : 精神療法の喜劇性の性格について、安永浩は、哲学者福田定良に触発され、以下を述べた。「精神療法はいわば知識人の行である。啓発し、啓発され、相手と同じレベルで論じ合い、理性の世界と『現実』の世界を一致させようとする行である」、「理性と『現実』が交じり合おうとするところにおかしみが生ずる。ただしこれはふざけや自嘲ではなく、静かで、しかも躍動をはらんだおかしみである」と。
一方、長さの整った芝生は、静寂である。
そしてまた、私は雑草を切りに、屋上に出る。
自己と世界の折り合いなんてものは、ないかもしれないが、芝生は自己と世界を媒介しているのかもしれない。
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